前回からの続きです。いつの間にか2週間以上経っている!
前回は、『「いき」の構造』の内容を読み解きました。
簡単におさらいすると、九鬼周造の『「いき」の構造』によると、「いき」は以下でした。
「いき」の構造は「媚態」と「意気地」と「諦め」との三契機を示している。さて今回は、この「いき」が現代の東京においてどんな美意識かという事を改めて考えてみます。
九鬼周造『「いき」の構造』より
あ、一応言っておくと、私は歴史とか江戸文化について専門家でもなんでもない、ただの歴史好きです。加えて、美意識は誰かが定義して固定するはなく、基本的にはゆるやかに変わり続ける生きた感覚です。
なので、ここに書いてあることは、一種の思考の遊びだと思って読んでください。
「いき」の定義のここが古い!
さて、前回ご紹介した九鬼の「いき」の定義ですが東京の美意識を考える上で、とても有効な考え方だと思います。ただ、今現在の西洋化・グローバル化・民主化されているこの東京においては、ちょっと古いかな、という部分もあります。というわけで、2017年の東京に住んでいる筆者が思う、いきのツッコミポイントを「いき」の三大要素である「媚態」、「意気地」、「諦め」からそれぞれ考えてみます。
1)媚態
まず媚態って、そもそも持っていないといけないものでしょうか?例えばLGBTの人、年配の人、また世の中には無性愛者という異性に性的感情を抱かない人もいます。ではその人々は「いき」になれないの?って思うと、それはちょっと違う気がします。2)意気地
意気地は、ちょっと経済観念が低いです。前回ご説明した通り、意気地は当時の武士道の流れにある考え方です。その中にはお金の事に関わるのは卑しいという思考が含まれます。「武士は食わねど高楊枝」や、「宵越しの金は持たない」は良く聞きますし、高級遊女である太夫は以下のように言われていました。「金銀は卑しものとて手にも触れず、仮初(かりそめ)にも物の値段を知らず、泣言を言はず、まことに公家大名の息女の如し」とは江戸の太夫の賛美であった。でもその価値観は幕府や、店の主人にとって都合の良い搾取のために作られた一面があります。現代の僕たちがその価値観をそのまま持ち続けるって、どうなんでしょう?
九鬼周造『「いき」の構造』より
3)諦め
「いき」における諦めは、仏教が元になっています。宗教の境地に関することなので、仏教徒以外には分かりづらいです。また、今ではこの言葉はネガティブな印象があります。現代にあった「いき」の再定義をしてみよう
先ほどのツッコミポイントを踏まえ、「いき」の再定義を考えてみました!1)媚態→サービス精神
媚態をもう少し大きくとらえ、サービス精神と言い換えてはどうでしょうか?これだったら、媚態の対象である異性以外も含むと思います。サービス精神には、「いき」で重要な2元性が含まれています。たとえば接客におけるサービス精神は、相手へのサービスでありながら売り上げを出すための行動という2元性があります。英語の、hospitalityに近い意味合いです。2)意気地→理想主義
意気地というと、意固地で頑なニュアンスがあります。この言葉ももう少し意味を広げて、理想主義としてみます。そうなる事で、お金を無理に考えない頑なさは無くなりました。3)諦め→ストリートワイズ(都会の経験知)
「いき」における「諦め」は経験で得た世間ずれした賢さという意味で使われる事が多いです。魂を打ち込んだ真心が幾度か無残に裏切られ、悩みに悩みを嘗めて鍛えられた心がいつわりやすい目的に目をくれなくするのである。経験を経る事で得る、人間や社会に対する知恵ということで、ストリートワイズとしてはどうでしょう。
九鬼周造『「いき」の構造』より
まとめると、現代における「いき」とは、1)サービス精神 2)理想主義 3)ストリートワイズ となりました。個人的には、結構分かりやすくなったと思うのですが、いかがでしょう?
これなら、現代の東京にも合うように多様性を含んでいます。
ただ、やってみて分かったのですが、汎用性が高い価値観として再定義した事で土着文化としての江戸らしさやは弱まった気はします。古い価値観の中にこそ、その土地らしさというものがあるのかもしれません。
次回は、「いき」をストイックに表現しているとあるミュージシャンについて書くつもりです!お楽しみに~。